”貧困・格差社会”は 今に始まったことではない

コラム日記
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日本の高度成長時代は終焉を迎え、貧困問題が再び表面化して大きな社会問題となっています。
しかし、もともと戦前の日本は階級社会でしたし、経済的に見ても今以上の超格差がありました。それを当然のこととして受け入れるしかなかったようです。

1968年には「世界第2位のGDP・経済大国」になり、みんなが豊かな国になったような錯覚を覚え大量消費は経済成長、社会の繁栄に寄与するとして踊らされていました。

それでも1972年の高度成長期が終わっても、このまま経済成長が続くかどうかなんて考えもせず、多くの人たちの消費行動に変化は見られませんでした。また高齢化社会、少子化社会が来ることは分かっていても、そのことに手を打つ政策が行われず、従来とおりの生活保護政策など個別で一時的な貧困救済政策しかしていませんでした。

今の貧困問題が起こったのはその「ツケ」が回ってきたという単純な論理は成り立ちません。私たちは格差から生まれる貧困の進行に歯止めをかけるための戦争という手段を再び打たないよう、教科書に載らないような庶民の近代史・現代史を学ぶ必要があるように思います。

戦前の日本は今よりも超格差社会だった

 日本は明治維新後、急激に工業化をすすめたが、国全体を見れば、「貧しい農村社会」でした。

昭和5年の調査では、第1次産業47%、第2次産業20%、第3次産業30%で、就業人口2900万人のうち1370万人が農業に従事していて、そのうち半分近くは女性でした。

その頃の農家の女性は、毎日農作業と、薄暗く家電のないしお湯も出ない土間の台所で家事一切、育児や祖父母、曾祖父母の介護など、過酷な労働環境と家庭環境に置かれていました。一年中休めないのは当たり前で、お盆、正月だからと言って男性のように休めるわけではなく、料理を用意するなど接客で普段よりも余計に忙しい家事をするのが当たり前でした。

 昭和20年の時点でも農業就労人口は全体の50%近くを占めていました。

 そして農家の大半が小作農として貧しい生活をしており、それは代々続いていく宿命にありました。

 

江戸時代と変わらなかった農村部

 都市の生活者たちは現在の人とあまり変わらないような、便利で文化的な生活をしていたといわれていますが、当時の人口の半数近くを占めていた農山村では、まだ江戸時代とほとんど変わらないような生活をしていました。

 農山村では、昭和に入っても上下水道やガスの設備が整っていないところは多く、煮炊きにはかまどや囲炉裏を使うので、これらには薪や柴が必要であり、その調達も農山村の生活には欠かせないものだった。

 電気は昭和初期には大半の家庭に入っていたが、電熱器などを使っていたのは都市部の家庭だけであり、農山村では各家に白熱灯が一個だけついている、ということが少なくなかったのです。

 また当時の農業は、実は経営基盤が非常に弱いものでもあった。今でも日本の農業には「土地の狭さ」という大きな問題があるが、それは戦前にすでに抱えていたものでした。

 図のように、農家一人あたりの農地面積というのは、世界と比べても大変狭い。所有耕地は5反(約0.5ヘクタール)未満が約50%で、3町(約3ヘクタール)以上は8%に過ぎなかった。

土地をもたない小作農が大半だった

 しかも戦前は、土地を持たない農作業だけを請け負う「小作人」が、日本の農業を担っていたが、階級は最下層であり、不作の年には娘を身売りするなどということが普通に行われていました。

 彼らは地主に「決められた小作料」を支払って農地を使わせてもらっていたため、農作物が不作のときや、農作物の価格が暴落したときは、小作料が払えなくなり、困窮しました。

  農家の経済基盤は非常に脆弱で、ことあるごとに生活が困難になり、特に昭和初期に起きた世界恐慌で、農村は大きな打撃を受けています。

 昭和7年当時、農家の1戸平均の借金は840円で、農家の平均年収723円を大きく上回るものだった。

貧しさから兵士になった農漁林業生まれの若者

 そして昭和9年には東北地方が冷害で不作となり、農村はまた大きな打撃を受けた。農村では学校に弁当を持って行けない「欠食児童」や娘の身売りが続出、一家心中も多発し、社会問題となっています。

 昭和6年の山形県最上郡西小国村の調査では、村内の15歳から24歳までの未婚女性467名のうち、23%にあたる110人が家族によって身売りを強いられたという。警視庁の調べによると、昭和4年の1年間だけで東京に売られてきた少女は6130人でした。

 5・15事件や2・26事件に走った将校たちも、「さて、初年兵教育を受け持って感じたのは、兵たちの半分くらいは貧しい農漁林業の生まれということだ。中には、妹が夜の勤めに出ている、家の借金が火の車というような者もいた。一方では新聞紙上で、ドル買いで財閥が儲けたとか、政治の腐敗とか、その他、我が国をめぐる厳しい内外の諸問題などを知るにつれ、私自身、社会観が変わっていったように思う」
瀬島龍三(せじまりゅうぞう)が著した『幾山河』

都市部の多くに貧民街があった

 貧しいのは農村だけではなかった。口減らしのために農村から都心に働きに出たが、思うような仕事につけず、まっとうな生活ができない貧民は激増していました。

 戦前の日本では、都市部の多くにも「貧民街」がありました。

 たとえば東京には深川、浅草、芝、小石川、下谷、京橋、麻布、牛込、本郷、四谷、神田、赤坂などに貧民街があった。彼らは非衛生的で狭い長屋などに住み、残飯などを食べて生活していた。当時は兵営や軍の学校ででた残飯を買い取る業者がおり、その業者が量り売りしているものを買って食べるのである。このような残飯買い取り業者は、昭和5年の時点で、東京市内に23軒もありました。

 この絶望的な貧富の格差により、社会の不満が溜まり、その不満を解消してくれる存在として軍部が台頭していったのです。

 日本が昭和初期に突き進んでいった戦争には、こういう背景があったのでした。

以上はお金の流れで読む日本の歴史(著者・大村大次郎から一部引用しました。


そして今の働かざるを得ない高齢者の貧困

なにか食べられる物を買うために、高齢になって体調を崩しても働かざるを得ない。そんな時代への入り口を、日本はゆっくりとくぐりつつあるようです。

数十年前から予見されていたのに…

高齢化は止まらない。総務省統計局によると2022年9月時点で、日本の65歳以上の高齢者人口は、過去最多の3627万人に達した。総人口に占める割合は29.1%と、こちらも過去最高を記録しています。

このうち75歳以上の人々に焦点を絞ると、総人口に占める割合は初めて15%を超えました。団塊の世代が75歳を迎え始めたためです。

人口ピラミッドの異変は数十年前から予見されていたにもかかわらず歯止めはかからなかったのですが
なぜ団塊世代の人口比率が多いかの理由をないがしろにしていないでしょうか。
それは、戦争のため兵隊を増やして人を「戦う物」扱いにする政策、『生めや増やせ』があったからです。

過去の歴史における戦争の悲劇は階級社会と貧困から生まれていていて、それが今違った形で新しい貧困社会が再び始まっているようです。

高齢者人口の比率が高まり、年金制度と医療制度に限界が来ていることで、高齢でも働き続けなければならない社会が到来し、日本では老後を生き抜くことが難しくなっています。

老後生活は自助努力に委ねられている

厚生労働省が実施している年財政検証(2019年発表)によると、国民年金(基礎年金)の第1号被保険者は約1500万人に上る。そのうち老後も継続収入が見込める自営業者は2割弱にすぎず、大半が短時間労働者や無職の人です。

日本では最近になって個人で貯蓄の手段として、投資が推奨されてきましたが、高齢者の働き盛りのころは定期貯金をすることしか選択肢がありませんでした。株式投資をする人はごく一部の人で、博打と同じような認識で見ている人が多かったのです。

NISAYやIDECOで積み立てる手段などはなくても、郵便貯金の定額貯金は、10年間で元金の2倍になっていた時もありました。倹約をしながら少しずつでも貯金をしていたならと後悔している高齢者もいるかもしれませんが、それができなかった理由には、子供の教育資金、住宅ローン返済、自動車を短期間で買い替えさせられていたなどで余裕がなかった人ん方が多かったのです。

年金があるから60歳まで働けば何とかなるという幻想が現実化した人は、公務員か大手企業のOBに限られてしまいました。

死ぬまで働く必要がある高齢者がたくさんいる日本は他の先進国だけではなく、かつて後進国と言われていた国々よりも悲惨な社会と言えるでしょう。働く職場では、能力的に「差別化社会」が生まれてきています。

お金の流れで読む日本の歴史(著者・大村大次郎

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